ABOUT

はじめに
小江戸あつぎ構想について

なぜ「小江戸あつぎ」なのか?概要


『厚木の盛なる、都とことならず。』
これは江戸時代末期の著名な画家、蘭学者であった渡辺崋山がその著書「游相日記」の中で 記した一説です。当時の厚木は江戸からの大山詣での客たちの宿場町として賑わったばかりでなく、相模川を媒体とした経済要地としての役割を果たすなど『小江戸』と称されるほど繁栄しました。 現在の厚木市も経済・交通の要衝として、研究機関や流通・サービス業が集まり県央の中核都市へとめざましい発展を遂げています。  

社団法人厚木青年会議所が創設された昭和44年、志を持った若き青年たちは、「郷土の未来像を深く考えよう」をテーマとして立ち上がり、行動してきました。文化会館建設の提言、鮎まつり前夜祭の主管もその活動のひとつです。様々な活動の中である意味では先輩たちの未来像は完成されたといってもいいのかもしれません。 しかし今、まちは発展し、私たちが何ひとつ不便なく生活することができるようになった中で、あえて小江戸と呼ばれた当時から失われたものは何かと考え、取り戻したいと感じたのは、当時の建物など、目に見えるものを再現することではありませんでした。私たちが本当にしたいことは、かつての『小江戸あつぎ』のまち並みの中にあったはずの、人と人とのふれあい、いわば人情のようなものから生まれる活気ある姿、『風流で賑やかなまちの復活』ではないかと考えたのです。 私たち社団法人厚木青年会議所は、今改めてこの故郷の未来像を深く考え、『小江戸あつぎ』をキーワードとして今後さまざまな形で厚木のまちを市民の皆さんとともに盛り上げていきたいと考えています。

〜由来〜渡辺崋山について

政治家であり蘭学者であり芸術家 1793年田原藩士(現在の愛知県田原市) 少年時代より内職で絵を描きながら家計を支え昌平校に学ぶ。田原藩の家老に就任。天保の大飢饉時の「報民倉」を設立し、藩内に餓死者を出さなかったことは特に有名。後年、高野長英らと尚歯社を結成。「蛮社の獄」に連座さる。当時の厚木に来たのは1831年頃といわれている。